セッキャ!

日記といいながら日記でないどころか1週間も前の話を平気で書くのだが、「息もできない」を観ていたのす(この口調の由来は『吉里吉里人』なのだが、更新しない間に井上ひさし先生も泉下の人となっていたことも判明していたのだ)。

吉里吉里人 (1981年)

吉里吉里人 (1981年)

それはさておき
 
息もできない

息もできない

これもさておき
 

 
暴力衝動の塊のようなヤクザと女子高生の心のふれ合い……と描くとえらい陳腐でベタだが、そこを韓国的、儒教文化的な父性観や血の濃さ、そして暴力の連鎖という大テーマにまで昇華させたこの作品の力強さを見よ。そういや週刊新潮福田和也氏が「北野武作品では描かれていなかった暴力の底が、この作品にはある」的な批評を書いて水道橋博士がカチンときていたのをtwitterで見たけど、底を描かないからこその北野映画なんじゃないかねえ。
 
さて韓国映画といえばビンタ暴力描写とポイントポイントでのベッタベタなベタ展開もしくは描写が特徴なわけだが、前述の通り、この作品でも……
 
……というか真剣に監督に尋ねたいのだ。韓国には「フラグ」の概念はあるのかと。