ズバリ言うわよ

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メモ8さんのブログを読んでいて、以前ばあっと下書きしたまま放っておいたエントリをなんとなく思い出してアップするかと思った、のをまた数日経ってから思い出した。歩いたら三歩で忘れる鳥頭。comfortableの意を含んでいたはずの「ゆとり」が罵倒語と化して久しいが、個人的には産経様のお陰で「正論」という単語がすっかりネガティブワードになっちゃった。それだけのおハナス。

「正論」
道理にかなった正しい意見や議論。「―を吐く」(大辞泉

正論というのには何種類かあって、いわゆるその後の議論を拒否する類の「ごもっともかもしれないが、それを言っちゃあおしまいよ」的なお説教であったり、はたまた単なる好悪に理論武装めいた見てくれを与える言葉だったりすることもある。この「好悪」にしてからが衆人の大多数が心底で抱えているものの発露なわけで、結局一定の支持を受けてカスケードを巻き起こすことも少なからずあるのであったSOSロマンティック。この点において呉智英の確信犯的暴論は本人の意図はどうあれ畢竟アホにとっての慰撫の具、弱者叩きの鞭と化している例も多だ。

つまるところ、産経的な「正論」って「(市民運動的な)きれいごと」の否定とイコールなわけだ(その割に別種の美辞麗句がお盛んなんだけど)。

きれいごとの否定を正当化することは非常に簡単だ。

身近なところで試しに一つやってみようか。


精神疾患者や知的障害者の家族を抱える人の中には、すれ違った子供連れの会話「見るんじゃありません」という言葉に傷ついた……と訴える人もままいる。しかし、そういった人間を凝視していて、相手がその視線に気付いたら?それがきっかけでからんできたら?そんな警戒心を持っていたら、子供の無邪気な視線を押しとどめようとするのも当然だろう。差別ではなく、当たり前の危機管理なんだよな。


と、書いてはみた。つまりは「お前らウダウダ言ってんなよ」である。対話の前段階として双方の立ち位置を一旦確認するのは基本だ。ヤン・シュワンクマイエルの作品「対話の可能性」では、野菜人間、金属人間たちが次第に混合しあい、お互いが近しい存在に変わっていく。しかし「正論」は歩み寄ることが可能なのか?「正しい論」であるのならば、誤った論が頭を垂れるべき、そうなるのではないか?私は「正論」の姿勢と発展性に強く危惧を抱く。ハーコーな断言は当方好むところではあるが(裏返せば『きれいごと』だってそのきらいはある)、小気味良い「正論」に乗ったパレードには、懸念を抱くこと頗るなのであった。