夕刊の必要性とはなんだろな

 新潟日報の夕刊を読んでいたら「プロレス生き残り必死」という記事が2面に載っていた。共同の配信かも分からんが、K-1やPRIDEに押されて苦境にあるプロレスが生き残りに必死…という内容。

…関係者は一様に「ファンは本物のプロレスを求めている。日本のプロレス団体は、努力が足りないから衰える」と指摘した。
 WWEは「プロレスは格闘ショー」であることを公言し、勝負ではなく迫力を見せることに徹した路線で成功している。競争も厳しく、脚光を浴びたレスラーも、ファンを満足させられなくなれば容赦なく切り捨てられる厳しさがある。
 日本は年功序列が崩れず、体もよく動かない“ロートル選手”がいつまでも幅をきかせている…

 書いた記者の思いが良く分かるくだりだなあ。この記事は結局、新日と全日は対抗戦に活路を見出し、「WRESTLE」を立ち上げた(原文ママビッグマウスはワンマッチ限定の興行システムで質の向上をはかる、日本のプロレスは生き残れるか…と、しめられる。
 記事の内容など、もはや前提以前のものとして、散々論じられてきた話だ。また全日はともかく、新日が対抗戦路線をそんなに長く引っ張る気はなかろう。しかしここで思い出すのが「朝日メタル事件」だ。
 今適当に名前つけた上に記憶もボロボロなんだが、朝日新聞で以前「なぜ日本ではへヴィメタルが人気があるのか」といった記事が載ったことがある。「日本は職人に敬意を払うから」とか微妙な意見が入ってたんだが、その記事について、BURRNで糾弾コラムが載ったわけだ。正直この反論にもピンとこなかったんだが、このようにある程度メジャー化した事象であれば、認識の浅い人間からの浅い評論が為されることも避けられない。そう考えれば、フローラン・ダバディ論争も起こるべくして起こったものだったのでせうね。

で、しめようと思ったわけだが

 認識が浅いというより事実誤認から出発してるって話も結構多いんだよな。新潟の住人として例を挙げてみると、週刊新潮に連載されている渡辺淳一氏の「あとの祭り」で、新潟県中越地震で奇跡の生還を果たした皆川優太ちゃんと亡くなったその家族について語られたことがある。子どもは無知ゆえに恐れを知らない。しかし母親は恐怖を知っていたがゆえに救援を待てなかった。それが生死を分けたのだといった内容。……母親が即死だったってのは翌日の新聞で既に出てる話なんだよ。別にこれは論争にも何にもなっちゃあいないが、文章書いて飯食ってる人たちが、「語る」ということをこんなに軽々しくやってたら売文家の誹りは免れまいよ。